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ESSAY

  • 「源平合戦はなかった。ゆえに、公暁は供養されなければならない」

     

     

    たまたまなのですが最近、「公暁供養塔計画」https://x.com/kgy_project

    なるプロジェクトがあるということを耳にしました。

    ご存じのように「公暁(こうぎょう)」は、近年まで「くぎょう」と呼ばれ、

    建保七年(1219)に鎌倉・鶴岡八幡宮において、

    自分の叔父にあたる三代将軍・源実朝を暗殺してしまった人物なのですが、

    その公暁の供養塔を、建立しようという計画らしいのです。

     

    そう言われれば公暁の墓が存在していないかも知れないな……という程度の知識しかないぼくは、

    もちろん、そちらのプロジェクトやクラファン計画には関与していないのですが、

    少し興味を持ち、改めてその周辺の歴史を繙いてみました。

     

     

     

    すると、実はこの計画には大きな歴史的意義があることに気づいたのです。

    その本質的な価値は誰も(もしかすると、プロジェクトに関与している方々ですらも……?)

    気づいていないかもと思われるような、実に重大な歴史的意義です。

    そこで今回、この計画の持つ「歴史的意義」「価値」と「本質」について、

    説明させていただきたいと思い立ちました。

     

    「源平合戦はなかった。ゆえに、公暁は供養されなければならない」

     

    という題名で、一見「風が吹けば桶屋が儲かる」的な、冗談のように感じられるかも知れませんが、

    実はとても真面目で論理的なお話なのです。

    最終的には必ずこの題名に納得していただけると思いますので、

    よろしくおつきあいください。

     

     

     

    みなさんは「源平合戦」と聞くと、どのようなイメージを持たれるでしょうか?

    おそらく大半の方は、平安後期に源頼朝が伊豆で挙兵して、

    そこに天才と謳われる弟の義経や、彼の郎党たちが加わり、

    平家一門が安徳天皇と共に壇ノ浦に沈むまでの一連の戦いをイメージされるのではないでしょうか。

     

     

     

    あるいは歴史に詳しい方ならば「治承・寿永の乱」――治承・養和・寿永・元暦の時代に起こった

    一連の戦いをイメージされるかも知れません。

    そうであれば「おごる平家は久しからず」という言葉の通り、平家の悲劇的な惨敗。

    頼朝・義経たち源氏の圧勝、という印象を持たれることと思います。

     

     

     

    しかし果たしてそれは「真実」なのでしょうか?

    我々は何か「大事なこと」を見落としていないでしょうか?

     

     

     

    まず、登場する人々の名前を見てみましょう。

    源義朝、頼政、義仲、頼朝、範頼、頼家、義経、などの「みなもとうじ」は「源氏」。

    一方、忠盛、清盛、重盛、宗盛、知盛、敦盛、などの「たいらうじ」は「平家」と呼ばれています。

    それは何故?

    「源氏」と同じように、普通に「平氏」で良いのでは……。

    実にその通りで「平氏」で良いのです。

    桓武天皇の血を引くゆえに「平安京」から「平」の一文字を取っている「桓武平氏」なのですから。

     

     

     

    平氏は、もともと東国に拠点を置いていた人々で、

    最も有名な人物は、常陸国の「平将門」でしょう。

    将門は一時期、都をも窺いますが、味方の裏切りによって命を落としてしまいます。

    (将門は日本三大怨霊の一柱だと言われていますが、ぼくは、そう思っていません。

    人情に篤い立派な大親分で、現在のような「将門怨霊伝説」が作られたのは、

    実のところ近代になってからなのです。

    興味がおありの方は、拙著『QED 御霊将門』『QED 河童伝説』講談社刊、

    『鬼門の将軍 平将門』新潮社刊、などをお読みください)

     

     

    平氏は、そこからたくさんの氏族に分かれていきました。

    正確に言うと、将門の兄弟たち辺りからです。

    その中で、やがて東国を離れて西国に移り、伊勢平氏と呼ばれるようになった人々がいます。

    清盛たちの祖先です。

     

     

    彼らは、北面の武士を勤めるなどして朝廷に必死に取り入り、

    清盛の父・忠盛の代になって、ようやく昇殿を許されました。

    しかし当初忠盛は、朝廷の貴族たちから「伊勢の平氏は眇(すがめ)なりけり」と揶揄されて、

    手を打ってからかわれ、バカにされていました。

    (ちなみにこの言葉は、現代語に訳すと放送コード等に引っかかってしまうので、口にできません。

    拙著『源平の怨霊』講談社刊、に書いてありますので、よろしければご参照ください)

     

     

    やがて清盛の代で平氏は全盛を極め、

    こちらの系統が「平家」と呼ばれるようになった、と言われています。

    つまり「平氏」という大きな枠の中で、

    清盛たちは「平家」という一氏族を打ち立てたのです。

    ということは当然その一方で、

    東国に残り、清盛たちの華々しい活躍を、なにがしかの思いを込めて、

    じっと眺めていた平氏たちもいたわけです。

    どういった氏族たちでしょうか?

    それは、北条、畠山、梶原、大庭、三浦、和田、などなどの人々です。

     

     

     

    おや? と思われた方も多いでしょう。

    というのも、彼らはやがて頼朝を担ぎ上げ、支えることになった氏族だからです。

    しかしこれは、彼らの系図を見ていただければ一目瞭然で、

    実は全員が「平氏」だったのです。

     

     

    特に、大群を引き連れて頼朝の前に参上した上総介広常などの本名は、

    そのまま「平広常」で、紛れもない「平氏」です。

    つまり、当時の武士たちは「西国平家」と「東国(板東)平氏」という、

    大きな二大勢力に分かれて存在していたことになります。

     

    では翻って、源氏の状況はどうだったでしょう。

    保元の乱では清盛と手を組んで勝利した義朝(頼朝の父)は、

    三年後の平治の乱で清盛と袂を分かち、相戦うことになりますが、あっさりと敗れてしまいます。

    その結果落ち延びて行くのですが、次男の朝長は途中で命を落とし、

    源氏の棟梁たる三男の頼朝は雪の中ではぐれて平家に捕まってしまいます。

    一時は、打ち首を覚悟していましたが、何とか助かったものの、

    伊豆の片田舎に流されることになりました。

     

     

     

    義朝自身も家臣・鎌田政家の、尾張国(愛知県)野間に住んでいる舅を頼りますが、

    裏切られて政家共々暗殺されてしまいます。

    それを知った長男の悪源太義平は、単身清盛の命を狙いますが、

    捕縛され六条河原で首を刎ねられてしまいます。

     

     

     

    また一方、義朝の側女であった常磐御前は、彼との間に生まれた三人の幼い子供たち、

    今若・乙若・牛若を連れて逃げますが、やはり平家に捕らえられてしまいます。

    しかし、常磐御前が京都一(おそらくは日本一)の美人であったため、

    清盛に愛人として抱えられ、そのおかげで三人の子供たち、

    今若(後の阿野全成)、乙若(後の義円)、牛若(後の義経)は、かろうじて命だけは助かり、

    それぞれ、醍醐寺、三井寺園城寺、鞍馬寺へと預けられました。

    このように、源氏は事実上、壊滅状態でした。

     

     

     

    この時点で西国平家は、この世の春を謳歌し始めていたのです。

    清盛たちにすれば源氏など歯牙にもかけておらず、

    だからこそ、頼朝や義経たちが命までは取られずに済んだという一面もあるでしょう。

     

    やがて「この一門にあらざるは、人非人なり」とまで豪語して驕り高ぶる平家に対して、

    多くの人々の不満が爆発しました。

    (この言葉も、正確な訳は口に出せないので、拙著『源平の怨霊』講談社刊、をご覧ください)

     

     

    そして、ついに治承四年(1180)。

    後白河天皇皇子の以仁王は、全国の源氏に向けて「平家を討て」という、

    令旨(命令の書)を出しました。

    但し、ここでのポイントは、あくまでも「源氏」に向けての令旨だったということです。

    つまり時政たち「東国平氏」は無関係でした。

    なのに、どうして頼朝にあれほど肩入れすることになったのかと言うと、

    またもう少し先の話になります。

     

     

     

    その令旨に応えて、都では源頼政が七十七歳にして挙兵します。

    今で言うと九十歳近い年齢でしょうか。

    しかし彼の主旨に賛同して、周囲の一般の人々までもが、反平家の狼煙を上げました。

    (挙兵の真の理由は不明とされていますが、実は非常に明瞭で筋が通っているのです。

    その真相も、やはり拙著『源平の怨霊』講談社刊、をご覧ください)

     

     

     

    結果、頼政は宇治川の戦いに敗れ、平等院で自害してしまいます。

    しかし、とても信頼していた頼政の挙兵に清盛は怒りが収まらず、

    やはり源氏は信用ならぬと言って、今度は全国の源氏の生き残りを全員殺せと命じます。

    そのため、伊豆の片隅でのんびり政子との恋に溺れていた頼朝もさすがに焦りました。

    時政としては、素直に頼朝の首を差し出す手もあったのですが、溺愛する娘に懇願されて、

    乾坤一擲、一か八かで頼朝を押し立てることに決め(やむなく)伊豆で挙兵します。

     

    しかし予想通り頼朝は殆ど力にならず、緒戦の山木館襲撃に際しては時政から、

    「一緒に来なくて良い。但し我々が敗れたことを知ったらこの場で自害して果てろ」

    と吐き捨てられたといいます。

    その後、自身が参戦した石橋山の戦いに於いては、一命を落とす寸前でした。

     

     

     

    それを何とか凌いだ後(天の助けとも言うべき)頼朝の異母弟たち、

    軍事の天才・義経や、人望篤い範頼らが戦列に加わり――ここから先は皆さんご存知の通り――

    一ノ谷、屋島、壇ノ浦と平家を撃破して行きます。

    そしてついに、先ほどの令旨から、わずか五年後の元暦二年(1185)

    壇ノ浦の戦いによって「西国平家」は滅亡してしまいました。

     

     

     

    ところが、実はその二年ほど前に、平家は木曾義仲のために、一度都を追い落とされていました。

    しかもその時、義仲は征夷大将軍になっていたという説もあります。

     

     

     

    ということは、この一連の戦いが本当に「源平合戦」であるならば、

    この時点で源氏の勝利となって終わっているはずです。

    だが実際はそうならず、頼朝・時政は、今度は大軍を用いて義仲を追い落としにかかりました。

    その結果、義仲は義経らによって首を取られてしまいます。

     

     

     

    これは一般に言われるように、ただ単なる源氏の仲間割れだったのでしょうか?

    おそらく、そうではないでしょう。

    事実、後白河法皇と時政が裏で手を結んで、何やら事を進めていたという説もあります。

     

    実際にその後、大功績を挙げた義経も、そして頼朝も、

    (ぼくは、頼朝は暗殺されたと思っています。

    その真犯人や暗殺方法も、やはり『源平の怨霊』に書いてあるので、

    ご興味がおありの方はそちらをご覧ください)

     

     

     

    続いて範頼、頼家、実朝、頼家の子・公暁と、全員が殺害されています。

    義仲の子の義高も殺害され、

    義経と静御前との間の生まれたばかりの子は、由比ヶ浜に沈められました。

    更に、頼家と比企一族との間に生まれた一幡も、わずか六歳で北条氏によって殺されています。

    このように、源氏の血を引く男子全員が殺害されているのです。

     

     

     

    結局これら一連の戦いは、俯瞰すれば清盛たち「西国平家」と、

    源氏を担ぎ上げて最前線で戦わせた北条氏たち「東国平氏」との戦い、

    つまり「平平合戦」であり、

    源氏は「東国平氏」たちの単なる「傭兵」に過ぎなかったと言えるのではないでしょうか。

     

    もっと細かく言うならば、純粋に「源氏」として「平家」と戦ったのは、

    頼政と義仲の二人しかいませんでした。

    他の戦いは全て「平平合戦」だったことになります。

     

    ところが一般に言われるように、この戦いを全て「源平合戦」と捉えてしまうと、

    一ノ谷、屋島、壇ノ浦の戦いなどにおける義経たちの大活躍で、

    源氏が一方的に平家を破ったように思えてしまい、

    「勝者」である源氏と「敗者」である平家(平氏)と色づけされてしまうのです。

    特に『平家物語』や、小泉八雲の『耳なし芳一』などで、

    平家の哀れさが強調されてしまうと、尚一層強く感じてしまうことでしょう。

     

     

     

    しかし今見てきたように、源氏のほぼ全員が「東国平氏」によって殺戮されています。

    義経、頼朝、範頼、頼家、実朝、公暁、義円、一幡など、源氏の血を引く人々の殆どです。

     

    しかも、鎌倉では死後の扱いも酷いのです。

    義朝の尾張・野間大坊の墓や、

    頼政の宇治・平等院の供養塔や、

    義仲の大津・義仲寺の墓があるのは、全て鎌倉の外です。

     

     

     

    一方鎌倉内では、鎌倉幕府初代将軍である頼朝の墓の所在すら明らかではなく、

    現在ある供養塔ですら、死後六百年も経った江戸時代に

    当時の島津藩主によって建立されました。

     

     

     

    修善寺の範頼や頼家の墓も酷く、一説では片手で押し倒せそうだったとも言います。

    明治の歌人・正岡子規が範頼の墓を訪れた際、雨ざらしの余りのみすぼらしさに

    自分が被っていた傘を捧げて、

    「鶺鴒(せきれい)よ この傘叩くことなかれ」

    と詠んで涙をこぼし、修善寺を後にする際には、

    「この里に悲しきものの二つあり 範頼の墓と頼家の墓と」

    と詠んだといいます。

     

     

     

    右大臣という高い地位に上り、鎌倉三代将軍であった実朝も、

    首なし遺体のまま勝長寿院の傍らに葬られました。

     

     

     

    更に、その勝長寿院は源氏の菩提寺だったにもかかわらず、

    名前とは裏腹に、火災で焼失後は廃寺になってしまって、

    現在は「跡地」しか残っていません。

    しかもその傍らには、頼朝の父である義朝と鎌田政家の、

    本当に小さな墓(供養塔)が草に埋もれて立っているだけです。

     

     

     

    更に、実朝を暗殺してしまった公暁に至っては、

    墓も供養塔も彼を祀る寺社すらなく、

    伝承の定かではない位牌が一柱、

    沼津の大泉寺というお寺に残されているだけです。

     

     (画像提供:ふぃろ)

     

    公暁に関しては、三代将軍・実朝を殺害したのだから仕方ない、

    という考えもあるようですが、本当にそうなのでしょうか?

    実はぼくは、そこにはまた違う理由があるのではないかと考えています。

     

    というのも、公暁が実朝の首を取った際に、

    「親の敵は、かく討つぞ」

    と叫んだとされているのですが、

    これは非常におかしな話なのです。

    何故ならば、公暁の父である鎌倉二代将軍・頼家が暗殺された元久元年(1204)、

    実朝は十二歳。

    公暁に至っては、わずか四歳でした。

    四歳の人間が、当時まだ十二歳だった「叔父」を「自分の親の敵」などと考えるでしょうか。

    しかも、実際に頼家の暗殺命令を下したのは、北条義時だったわけです。

    全てが理屈に合いません。

     

     

     

    おそらく公暁は、幼い頃からずっと誰かにそう唆され、

    (言い方を変えれば「洗脳」)され続けてきたのでしょう。

    もしかすると「その時」のために何者かによって、

    「純粋培養」されてきたのかも知れないと思ってしまうほどです。

     

     

    そして、建保七年(1219)正月二十七日の鶴岡八幡宮の悲劇へと突き進んで行き、

    実朝の首を取った後(まるで口封じのように)三浦の郎党に襲われて首を取られ、

    十九歳の短い生涯を終えました。

    ここで「源氏嫡流――正統な源氏の血」は絶えてしまいます。

     

     

     

    続いて、義朝の血を引いていた今若(阿野全成)の子、

    つまり、次期将軍の座を狙うことができた人物である阿野時元も、

    義時らの襲撃を受けて自害してしまいます。

    ここに「源氏庶流――源氏分家の血」も絶えてしまったことになります。

    (正確に言えば、女子を含めた「源氏の血」は、まだ残っていましたが、

    どちらにしても、その十五年後には、完全に絶えることになります)

     

     

     

    結局は公暁も、東国平氏たちの「傭兵」の一人に過ぎなかったということなのかも知れません。

    穿った見方をすれば「実朝暗殺」のために、

    用意周到に「準備」されていたのではないかとも思えてしまうほどです。

    そのために、彼の墓も供養塔すらも造られなかったのでしょう。

    何故なら、公暁をうまく利用した人々にとって彼を弔うことは、

    自分たちの所業を認めることになってしまうからです。

    彼らとしては、あくまでも

    「勘違いして血気に逸り、一人で暴発してしまった無知な若者」

    としておきたかったのではないでしょうか。

     

     

     

    つまり――。

    壇ノ浦で亡んだ「平家」や、

    その後、鎌倉での権力争いで命を落とした「平氏」はもちろんとしても、

    東国平氏たちの「傭兵」として戦い、

    役目が終わると同時に次々と粛清されていった「源氏」こそ、

    もっときちんと丁寧に供養されるべきではないのかとぼくは考えるのです。

     

     

     

    ★結論

     

    「源平合戦はなかった」

    「この戦いは、あくまでも『西国平家』と『東国平氏』との戦いで、

    源氏は東国平氏の『傭兵』に過ぎなかった。

    その証拠に源氏は、役目が終わると次々に殺されている」

    「しかし、これら一連の戦いを『源平合戦』と考えてしまうと、

    源氏は一ノ谷・屋島・壇ノ浦などで『西国平家』に勝利している」

    「そのため、一般的に勝者と思われていて

    『西国平家』滅亡後に『東国平氏』によって命を奪われて血統を絶やされた源氏は、

    きちんと供養・鎮魂されていない」

    「更に、頼朝の孫の公暁に至っては、墓や供養塔どころか彼を祀る寺社すら存在しない。

    その理由として、公暁が『親の敵』として三代将軍・実朝を暗殺したからだといわれている」

    「しかし『親』である頼家暗殺当時の彼の年齢を考えると、

    そのようなことを考える可能性はとても低く、

    後に『東国平氏』の策謀に嵌められてしまったと思われる」

    「ゆえに。

    正統な源氏を継ぎ、しかもその純粋さにつけこまれて利用され

    『東国平氏』によって暗殺者として殺戮されてしまった公暁こそ、

    最後の『正統な源氏』として供養・鎮魂されるべきである」

     

     

     

ESSAY

  • 『猿田彦の怨霊――小余綾俊輔の封印講義――』

     

    今回のテーマは「猿田彦神」です。

    そして小余綾俊輔シリーズなので陰惨な殺人事件は何も起こらず(笑)

    1冊丸々「猿田彦神」を追いかけます。

     

     

    みなさんは「猿田彦神」をご存知かと思います。

    ご存じない方でも「天狗」は知っているでしょう。

    赤ら顔、高い鼻、ザンバラの髪。

    団扇を手に怪奇現象を起こす神です。

    その「天狗」のモデルとされているのが、

    今回のテーマの猿田彦神なのです。

    その容貌の真偽はともかくとして、

    それほど我々の身近に存在していた神なのに、

    詳しく追っていくと、最後は今も、

    「正体不明の神」とされています。

     

     

    猿田彦神に関する色々な研究・著作に目を通しても、

    誰もが「天孫・ニニギノミコトを先導した神」

    あるいは「道開きの神」「導きの神」

    としか書かれておらず、最終的には「正体不明の謎の神」で終わっているのです。

    一体これはどうしたことなのでしょうか。

    ニニギノミコトの前に姿を現しているにもかかわらず

    どうしてそれほど不可解な神なのでしょうか。

     

     

    やがて猿田彦神は天宇受売命と結婚して伊勢に向かい、

    その地(にあるとされた)海に溺れて命を落としてしまいます。

    しかしその後、天宇受売命は子々孫々まで朝廷から厚遇されました。

    それは一体、何故?

    言われてみれば、確かに「不可解」なことだらけです。

     

     

    そんな謎に、例によって小余綾俊輔、加藤橙子、堀越誠也たち3人が挑みます。

    そのきっかけは、橙子が奈良で見た「庚申参り(待ち)」でした。

    「申」はもちろん「猿」です。

    同時に「神」を表しています。

     

     

    しかし「括り猿」や「見ざる・言わざる・聞かざる」や「弾き猿」

    そして、江戸川柳などなで「猿」はかなり卑下されています。

    どうして「猿」――「猿田彦神」が、これほど蔑視されているのでしょうか?

     

     

    確かに「猿」には余り良いイメージがありません。

    また「犬猿の仲」という言葉もあるように、

    「猿」と「犬」は仲が悪いと言われてきました。

    ところが「猿」と「犬」は等しい存在と考える地方も存在していました。

    これは一体、どういうことなのか?

    更に「庚申」にまつわる数々の謎の風習の意味は?

    猿回しの起源とも言われている「厩に猿を飼うと縁起が良い」という意味の本質は?

    そもそも「猿田彦大神」は、本当に「猿田彦」という名前だったのでしょうか。

     

     

    それらの謎を追って行くと、我々日本人の根源にまでたどり着いてしまうのです。

    これがおそらく、誰もが(特に朝廷側の人々が)

    猿田彦神を「不可解な神」としておきたかった理由と思われます。

     

    ぜひ皆さまも、小余綾俊輔や橙子たちと一緒に、

    猿田彦神を追う旅にお出かけください。

     

ESSAY

  • 今年もありがとうございました。

    2022年もいよいよ押し詰まってきましたが、

    皆様いかがお過ごしでしょうか。

    久々の「Essay」ですが、

    たまには(?)一年を振り返ってみようと思います。

    1月には(正確には2021年末発売の)

    「小説現代1・2月合併号」に、

    短編「修善寺の鬼」を書かせていただきました。

    内容は例によって、

    北条時政や政子の秘密などなどです。

    同月、文庫『源平の怨霊』が上梓されました。

    これはNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」と時期を同じくして

    (過去にも2、3度ありましたが)

    非常に驚きました。

    3月には星海社より上梓された

    『編集者 宇山日出臣追悼文集』に、

    宇山さんとの思い出を少し書かせていただきました。

    また、13人の作家によるオムニバス

    講談社文庫『読んで旅する鎌倉時代』に

    「修善寺の鬼」が収録されました。

    そして「QEDシリーズ」第25弾(多分……)

    『QED 神鹿の棺』が上梓されました。

    内容は、常陸国・東国三社の

    「鹿島神宮」「香取神宮」「息栖神社」にまつわる

    非常に大きな謎に関してです。

    講談社ノベルス創刊40周年ということで、

    オマケの「特別書き下ろしショートストーリー」も、

    松本救助さんのイラスト入りで書かせていただきました。

    5月には、講談社文庫『古事記異聞 鬼統べる国、大和出雲』が上梓されました。

    「古事記異聞 出雲編」最後の文庫です。

    こちらも(内容とは裏腹に笑)松本救助さんのとても可愛らしい表紙です。

     

    「メフィストリーダースークラブ・ショートショート」に

    「晦日の月猫」という掌編で参加させていただきました。

    大勢の作家さんのオムニバス形式だったのですが、

    「最初の一行だけ決まっている」という

    (星新一さんの『ノックの音が』のような)

    とても面白い企画でした。

    8月には、もう20年も前に書いた、

    『試験に出るパズル』が

    「Quizknock×講談社文庫フェア」の

    「ふくらPチョイス」として選ばれ、

    懐かしく店頭に並びました。

    ふくらPさん、ありがとうございました(^^)

    9月には、講談社文庫『QED 優曇華の時』が

    上梓されました。

    こちらはご存知(?)安曇野・穂高、

    そして安曇族や隼人たちの話です。

    11月には、講談社ノベルス、

    『古事記異聞 陽昇る国、伊勢』が上梓されました。

    前回で「出雲編」を終了して、

    ここからは「伊勢」に移ります。

    今まで「QED」で伊勢に関して書いたことに加えて、

    少し衝撃的な新しい発見があったので、

    「古事記異聞」として書いてみました。

    12月には再び「メフィストリーダースークラブ・ショーショート」に

    「女帝の憂鬱」という掌編で参加させていただきました。

    こちらの最初の一行は「嘘をついたのは初めてだった」でした。

    おそらくは日本史上最大級と思われる「嘘」の話を

    書かせていただきました。

    果たして次のお題(?)は何なのでしょうか。

    またぜひ参加させていただこうと、

    楽しみに待ち構えています(^^)

     

    そして――――来年ですが、

    1月には講談社文庫『試験に出ないQED異聞』。

    2月には「メフィストリーダースークラブ」のオムニバスに「晦日の黒猫」。

    来年は作家デビュー25周年を迎えるので、

    講談社からは「特別記念書き下ろし」

    「QED 第26弾(多分……)」

    新潮社からは「小余綾先生シリーズ」

    などなど+αで上梓される予定です。

    ぜひ懲りずに(?)来年もよろしくお願い申し上げます。

     

ESSAY

  • 『QED 神鹿の棺』

    平安中期に編纂された書物で、

    当時の朝廷からとても重要視されていた、

    官弊社の一覧『延喜式神名帳』には、

    「神宮」と号された社が、

    たった三社だけ記載されています。

    それはどこかというと、

    もちろん、伊勢国の「伊勢神宮」。

     

    そして、

    常陸国の「鹿島神宮」。

     

    下総国の「香取神宮」。

     

    この三社なのです。

    熱田神宮も、石上神宮も、

    もちろん、出雲大社も、伏見稲荷大社も、

    「神宮」と号されていなかった時代に、

    どうして、京から遥か遠く離れた東国のこの二社が?

     

    その理由としては、交通の要衝だったからとか、

    蝦夷を見張るためだったからとか、

    さまざまな理由が述べられていますが、

    それらは全て後世の理論。

    明らかに後付けです。

    当時はもっと、論理的で根元的、

    そして、そうせざるを得ない逼迫した理由が、

    あったはずだからです。

     

    しかも、鹿島・香取の二神宮に、

    やはり茨城県に鎮座する、息栖(いきす)神社を加えると、

    霊験あらたかな「東国三社」となり、

     

    見事な「直角二等辺三角形」を作っているため、

    現在では「東国三社パワースポット」として、

    一般の人々にも大人気のようです。

     

    では、そもそも誰が何のために、

    「直角二等辺三角形」を作ったのか?

    もちろん、偶然にそうなったわけではありません。

    そこには何者かの「ある意図」が働いていました。

    というのも、鹿島神宮と息栖神社は、

    同じ年にわざわざ現在地に遷座しているからです。

     

    ならば、その意図は何か?

    更にもう一歩進んで、

    その何者かが「直角二等辺三角形」を作らなくてはならないと考えた理由は何か?

     

    それを追求して行くと、

    とんでもない歴史にぶち当たりました。

    正直ぼくも「まさか」と思わず目を疑ってしまうほどでした。

    しかし、昔人はきっとそこまで考えていたのだろうと感じています。

     

    常陸国には鹿島・息栖だけではありません。

    大洗磯前(いそざき)神社。

    酒列(さかつら)磯前神社。

    大甕倭文(おおみか・しとり)神社。

    静(しず)神社……などなど。

    長い歴史と謎に満ちた神社が数多く存在しています。

    今回、長い間口を閉ざして眠られていた神々を

    揺り起こしてしまったかも知れませんが、

    この、実に恐ろしい旅に(笑)

    ぜひ皆さまも、おつき合いいただければと存じます。

ESSAY

  • 『源平の怨霊 小余綾俊輔の最終講義』

     

    1月14日に、講談社文庫より、

    『源平の怨霊――小余綾俊輔の最終講義』

    が上梓されました。

     

     

    こちらは2019年にハードカバーで出版されていますので、

    ご存知の方も多いでしょうから手短かに。

     

     

    この作品の大きなテーマは、

    「何故、池禅尼が自分の命を賭してまで、

    幼い頼朝の命乞いをしたのか?」

    「怨霊になっているはずの義経が、

    何故、きちんと祀られていないのか」

    ということです。

     

     

    この「源平合戦」は、

    実にさまざまな謎で埋め尽くされています。

    そもそもの根元的な話、当時は酷い泥湿地帯だった鎌倉に、

    何故、頼朝が居を構え、やがて幕府を開いたのか?

     

     

    また、どう考えても地理的・物理的・時間的に不可能だった、

    一の谷・鵯越の坂落としが、

    何故、義経によってあたかも成功したかのように

    言い伝えられてきているのか?

     

     

    更に、壇ノ浦で二位尼・時子は、

    何故、安徳天皇や「三種の神器」と共に入水したのか。

    本来は――全く難しいことでも何でもなく――

    天皇の命も神器も無事だったはず。

    しかし、彼女にそれができなかった理由は?

     

     

    その他にも、数多くの謎が存在しているのですが、

    これらの謎は、たった1つの理由によって、全て氷解します。

    そして、いわゆる「源平合戦」は、

    実は「無かった」のだという事実も、浮かび上がってくるのです。

     

     

    巻末の大矢博子さんの解説も、

    実に、正鵠を射ていて素晴らしいです。

    ぼくも「まさにその通りだ」と感動してしまいました(笑)

    この解説だけでも(?)一読の価値はありますので、ぜひ。

     

    例によって皆さまも主人公たちと一緒に、

    鎌倉の謎にチャレンジしていただければ、幸いです。

     

     

     

ESSAY

  • 新年のご挨拶

    新年明けましておめでとうございます。

    初詣の祈願は、コロナ終息の一択でしょうか。

    今年一年、皆さまの無病息災を願い上げます。

    そんな中、早速ですが今年前半の出版予定のご報告です。

    まずは、

    1月14日:『源平の怨霊――小余綾俊輔の最終講義』(講談社文庫)

    こちらに関しては、後ほど講談社「tree」に

    エッセイを寄稿させていただきます。

    2月14日:『読んで旅する鎌倉時代』(講談社文庫)に

    「修禅寺の鬼」で参加。

    初めての「歴史小説・時代物」です。

    発売予定日は平将門公の命日なのですが(笑)

    源氏に関する、例によって例の話です。

    3月中旬:『QED 神鹿(しんろく)の棺』(講談社ノベルス)

    こちらは、祝「講談社ノベルス四十周年記念」作となります。

    今回、桑原崇たちが訪れるのは常陸国――茨城県です。

    その地で彼らは、今まで(なぜか)誰も言及してこなかった、

    とんでもない歴史を発見します。作者もびっくりです(?)

    更に、ちょっとした「オマケ」もつきます。

    ぜひお楽しみに。

    5月中旬:『鬼統べる国、大和出雲――古事記異聞』(講談社文庫)

    「古事記異聞・出雲編」の完結編です。

    続いて今年は、いよいよ「伊勢編」に突入します。

    また、今年後半頃には単発書き下ろしも予定しています。

    (あくまでも予定です!)

    と……色々とありますが、

    懲りずに今年もよろしくお願いします。

ESSAY

  • 『采女の怨霊─小余綾俊輔の不在講義』

    11月20日に新潮社より、書き下ろし新刊、

    『采女の怨霊―小余綾俊輔の不在講義』

    が上梓されました。

    采女って何? と思われた方も大丈夫です。

    加藤橙子が基礎の基礎から調べてくれます(^^)

     

    実は、本作の舞台となる奈良、

    猿沢池に鎮座する「采女神社」は、

    ぼくが今までに見てきた中でも

    1、2位を争うほど奇妙な神社でした。

     

    この社は春日大社末社なのですが、

    創建時のエピソードも、毎年の例祭に関しても、

    橙子が頭を抱えるほど、とにかく謎だらけです。

     

    その謎を橙子と、大学の歴史研究室助手の

    堀越誠也が追います。例の凸凹コンビです(笑)

     

    そのついでに(?)あろうことか、

    「壬申の乱」にまで手を伸ばします。

    天智天皇亡き後、大友皇子と大海人皇子(天武天皇)

    との間で繰り広げられた、

    古代日本史上最大の争乱です。

     

    この争いも実に謎が多く、

    戦前は教科書から削除されてしまったといいます。

    (削除するということ自体も不審です)

     

    それにしても「采女神社」と「壬申の乱」が、

    どこでどう関係してくるのか。

    正直に告白しますと、

    ぼくもずっと分かりませんでした(笑)

    しかしある日、突然に気がついたのです。

    もしかすると、

    奈良公園の鹿が教えてくれたのかも知れません。

    (これは決して冗談ではありません)

     

    ついでに宣伝しておきますと、

    来年上梓予定の「QED」では、

    その「鹿」を追います。

    「最近は『鹿』に取りつかれていませんか?」

    と、担当さんにも言われました。

    でも、こうなったら徹底的に「鹿」も追いかけます。

     

    そして最後は小余綾俊輔によって、

    「采女神社」と「壬申の乱」にまつわる

    全ての謎が解決されてゆきます。

     

    例によって橙子や誠也が国内を巡りますので、

    なかなか旅行しづらいこんな時、

    みなさまも、彼らと一緒に

    さまざまな場所に足を運び、

    謎解きにチャレンジしていただければ幸いです。

     

ESSAY

  • 『QED 源氏の神霊』

    3月19日に講談社ノベルスより

    『QED 源氏の神霊』が上梓されました。

    タイトル通り、源平合戦がテーマになります。

    以前に、小余綾俊輔を主人公とする

    『源平の怨霊』を上梓しましたが、

    そこではとても書ききれなかったことや、

    後から指摘された点に関しての(個人的な)解釈や、

    また更に、新たな発見などなどがあったので、

    今回は崇と奈々、そして新婚ホヤホヤの小松崎に、

    源平の謎にチャレンジしてもらいました。

    前回は「池禅尼の、不可解な頼朝助命嘆願」を

    追いましたが、

    今回は「源頼政の、不可解な77歳の挙兵」が

    メインテーマになります。

    源頼政って誰?

    と思われた方もいらっしゃるでしょうが、

    二度にわたる鵺退治で、名刀・獅子王を拝領し、

    その後、以仁王の令旨に応えて、

    何と77歳にして打倒平家のために挙兵し、

    本人は、敗れて宇治で切腹したものの、

    それがきっかけで木曾義仲と源頼朝の旗挙げを促し、

    その結果、平家の壇ノ浦での滅亡に導いたことは、

    どなたもご存知でしょう。

    ところがその時、歌も堪能だった文武両道の頼政は、

    高い官位を得て、すでに出家していました。

    それなのに、どうして子供たち共々挙兵したのか。

    いや、しなくてはならなかったのか?

    『平家物語』などを始めとして、

    実にさまざまな理由が巷間流れていますが、

    いずれも納得できるものではありません。

    その謎に、崇たちがチャレンジします。

    それに絡んで(間狂言のようにして)

    木曾義仲のエピソードにも触れています。

    なんとなくどこかで見た風景かも知れませんが、

    それは読んでからのお楽しみということで。

    そして3人は、京都・頼政塚で起こった

    殺人事件を追って、下関まで足を伸ばします。

    赤間神宮です。

    赤間神宮といえば、もちろん安徳天皇です。

    崇たちは、安徳天皇の謎に挑みますが、

    それが意外なことに…………。

    ということで、ぜひまた崇たちとご一緒に、

    歴史探究の旅に(こんな時期、書物の中だけでも)

    おつき合いいただければ幸いです。

ESSAY

  • 『古事記異聞──鬼統べる国、大和出雲』

    114日に講談社ノベルスより、

    「古事記異聞」の第4弾になる、

    『鬼統べる国、大和出雲』が上梓されました。

    これで『古事記異聞』の「出雲編」は完結します。

    ということは「出雲」に関して、

    何らかの結論が出たということになりますが……

    さて、それはどんな「結論」だったのでしょうか?

    今回、橘樹雅たちはその「出雲」を追って、

    大和国・奈良に旅立ちます。

    主たる取材地は三輪。

    三輪といえば、日本最古を誇る大神(おおみわ)神社です。

    何しろ「神」と書いて「みわ(三輪)」と読んでしまうのですから

    実に凄い話です。

    その途中で、色々な場所にも立ち寄りますが、

    何とか無事に(笑)大神神社に辿り着きます。

    すると驚愕の事実、

    「アニミズム(自然崇拝)の原点といえる神社なのに、

    拝殿が肝心の神体山の頂上を向いていない!」

    (=拝殿から神体山頂上を拝めない)

    ことに気づきます。

    それは一体何故?

    この点は以前に『QED』などにも

    ほんの少しだけ書きました。

    しかし今回、雅たちは、

    「それなら、拝殿はどこを向いて(見て)いるのか?」

    「参拝者は(知らずに)どこを拝んでいるのか?」

    という大きな謎にチャレンジすることになります。

    実に無謀な挑戦ですが、やってしまいます(笑)

    拝殿が向いている方角を追いかけて、

    二人は実際に色々な場所に足を運ぶことになります。

    ちなみにこちらは、長谷寺です。

    ここで雅は千鶴子から、長谷寺が隠し持っている、

    暗く深い歴史を聞かされて驚きます。

    かなり衝撃の歴史ですが、おそらく真実です。

    殆ど治外法権ともいえる長谷寺に、

    なぜ多くの人々が足を運んだのか?

    特に、妙齢の女性が多かったといわれています。

    その理由は何だったのでしょう……?

    でも、まだまだ雅たちの謎解きの旅は続きます。

    誰かにこっそり後をつけられているとは全く気づかずに、

    雅たちはこんな所まで。

    ちょっとディープな奈良です。

    さて。

    果たして二人は、無事に解答に辿り着けたでしょうか?

    ぜひみなさまも、雅たちとご一緒に、

    バーチャルな歴史探訪の旅にお出かけいただければ幸いです。

     

ESSAY

  • 『古事記異聞──京の怨霊、元出雲』

    7月6日に講談社ノベルスより、

    『古事記異聞 京の怨霊、元出雲』

    が上梓されました。

    「出雲」を追いかけて橘樹雅は、

    今回は京都に足を運びます。

    「出雲」なのに、なぜ京都?

    と思われる方も多いと思いますが、

    題名のように、京都には「元出雲」と呼ばれる、

    由緒正しい神社が鎮座しています。

    保津川下りで有名な亀岡に坐す、

    元出雲・出雲大神宮です。

    実際に江戸時代末期頃まで「出雲大社」といえば、

    この大神宮のことを指していたといいます。

    (島根の出雲大社は「杵築大社」と呼ばれていました)

    そして「元出雲」と呼ばれているからには当然、

    現在の出雲大社より古くから存在していたことになります。

    京都市内にはその他にも、

    怨霊の寺と呼ばれた「出雲寺」を始めとして、

    今も数多くの「出雲」が存在しています。

    まるで「出雲国」がそこにあったようですが、

    そんなわけもありません。

    では、どうしてそんなに地名が残っているのか?

    しかもその場所の多くは、上賀茂・下鴨神社近辺です。

    賀茂氏といえば、熊野の神の八咫烏。

    その賀茂氏が「出雲」のそばにいる?

    何故、彼らと関わりがあるのでしょう。

    今回は、そんな大きな謎を橘樹雅が追います。

    非常に頼りない彼女ですが、

    京都では、水野研究室大先輩の民俗学研究家、

    金澤千鶴子という、強力な助っ人と巡り会うことができました。

    彼女のアドバイスによって、

    雅はさまざまな「出雲」をまわるのですが、

    果たして、無事に謎が解けたでしょうか……?

    現在、世間は旅行もままならぬ逼塞した状況ですので、

    みなさまには、せめて作品の中だけでも春の京都

    (今回はいつもにも増してディープな京都)

    を旅していただければと、心より願っています。

    それでは、良い旅を!

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