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ESSAY

「源平合戦はなかった。ゆえに、公暁は供養されなければならない」

 

 

たまたまなのですが最近、「公暁供養塔計画」https://x.com/kgy_project

なるプロジェクトがあるということを耳にしました。

ご存じのように「公暁(こうぎょう)」は、近年まで「くぎょう」と呼ばれ、

建保七年(1219)に鎌倉・鶴岡八幡宮において、

自分の叔父にあたる三代将軍・源実朝を暗殺してしまった人物なのですが、

その公暁の供養塔を、建立しようという計画らしいのです。

 

そう言われれば公暁の墓が存在していないかも知れないな……という程度の知識しかないぼくは、

もちろん、そちらのプロジェクトやクラファン計画には関与していないのですが、

少し興味を持ち、改めてその周辺の歴史を繙いてみました。

 

 

 

すると、実はこの計画には大きな歴史的意義があることに気づいたのです。

その本質的な価値は誰も(もしかすると、プロジェクトに関与している方々ですらも……?)

気づいていないかもと思われるような、実に重大な歴史的意義です。

そこで今回、この計画の持つ「歴史的意義」「価値」と「本質」について、

説明させていただきたいと思い立ちました。

 

「源平合戦はなかった。ゆえに、公暁は供養されなければならない」

 

という題名で、一見「風が吹けば桶屋が儲かる」的な、冗談のように感じられるかも知れませんが、

実はとても真面目で論理的なお話なのです。

最終的には必ずこの題名に納得していただけると思いますので、

よろしくおつきあいください。

 

 

 

みなさんは「源平合戦」と聞くと、どのようなイメージを持たれるでしょうか?

おそらく大半の方は、平安後期に源頼朝が伊豆で挙兵して、

そこに天才と謳われる弟の義経や、彼の郎党たちが加わり、

平家一門が安徳天皇と共に壇ノ浦に沈むまでの一連の戦いをイメージされるのではないでしょうか。

 

 

 

あるいは歴史に詳しい方ならば「治承・寿永の乱」――治承・養和・寿永・元暦の時代に起こった

一連の戦いをイメージされるかも知れません。

そうであれば「おごる平家は久しからず」という言葉の通り、平家の悲劇的な惨敗。

頼朝・義経たち源氏の圧勝、という印象を持たれることと思います。

 

 

 

しかし果たしてそれは「真実」なのでしょうか?

我々は何か「大事なこと」を見落としていないでしょうか?

 

 

 

まず、登場する人々の名前を見てみましょう。

源義朝、頼政、義仲、頼朝、範頼、頼家、義経、などの「みなもとうじ」は「源氏」。

一方、忠盛、清盛、重盛、宗盛、知盛、敦盛、などの「たいらうじ」は「平家」と呼ばれています。

それは何故?

「源氏」と同じように、普通に「平氏」で良いのでは……。

実にその通りで「平氏」で良いのです。

桓武天皇の血を引くゆえに「平安京」から「平」の一文字を取っている「桓武平氏」なのですから。

 

 

 

平氏は、もともと東国に拠点を置いていた人々で、

最も有名な人物は、常陸国の「平将門」でしょう。

将門は一時期、都をも窺いますが、味方の裏切りによって命を落としてしまいます。

(将門は日本三大怨霊の一柱だと言われていますが、ぼくは、そう思っていません。

人情に篤い立派な大親分で、現在のような「将門怨霊伝説」が作られたのは、

実のところ近代になってからなのです。

興味がおありの方は、拙著『QED 御霊将門』『QED 河童伝説』講談社刊、

『鬼門の将軍 平将門』新潮社刊、などをお読みください)

 

 

平氏は、そこからたくさんの氏族に分かれていきました。

正確に言うと、将門の兄弟たち辺りからです。

その中で、やがて東国を離れて西国に移り、伊勢平氏と呼ばれるようになった人々がいます。

清盛たちの祖先です。

 

 

彼らは、北面の武士を勤めるなどして朝廷に必死に取り入り、

清盛の父・忠盛の代になって、ようやく昇殿を許されました。

しかし当初忠盛は、朝廷の貴族たちから「伊勢の平氏は眇(すがめ)なりけり」と揶揄されて、

手を打ってからかわれ、バカにされていました。

(ちなみにこの言葉は、現代語に訳すと放送コード等に引っかかってしまうので、口にできません。

拙著『源平の怨霊』講談社刊、に書いてありますので、よろしければご参照ください)

 

 

やがて清盛の代で平氏は全盛を極め、

こちらの系統が「平家」と呼ばれるようになった、と言われています。

つまり「平氏」という大きな枠の中で、

清盛たちは「平家」という一氏族を打ち立てたのです。

ということは当然その一方で、

東国に残り、清盛たちの華々しい活躍を、なにがしかの思いを込めて、

じっと眺めていた平氏たちもいたわけです。

どういった氏族たちでしょうか?

それは、北条、畠山、梶原、大庭、三浦、和田、などなどの人々です。

 

 

 

おや? と思われた方も多いでしょう。

というのも、彼らはやがて頼朝を担ぎ上げ、支えることになった氏族だからです。

しかしこれは、彼らの系図を見ていただければ一目瞭然で、

実は全員が「平氏」だったのです。

 

 

特に、大群を引き連れて頼朝の前に参上した上総介広常などの本名は、

そのまま「平広常」で、紛れもない「平氏」です。

つまり、当時の武士たちは「西国平家」と「東国(板東)平氏」という、

大きな二大勢力に分かれて存在していたことになります。

 

では翻って、源氏の状況はどうだったでしょう。

保元の乱では清盛と手を組んで勝利した義朝(頼朝の父)は、

三年後の平治の乱で清盛と袂を分かち、相戦うことになりますが、あっさりと敗れてしまいます。

その結果落ち延びて行くのですが、次男の朝長は途中で命を落とし、

源氏の棟梁たる三男の頼朝は雪の中ではぐれて平家に捕まってしまいます。

一時は、打ち首を覚悟していましたが、何とか助かったものの、

伊豆の片田舎に流されることになりました。

 

 

 

義朝自身も家臣・鎌田政家の、尾張国(愛知県)野間に住んでいる舅を頼りますが、

裏切られて政家共々暗殺されてしまいます。

それを知った長男の悪源太義平は、単身清盛の命を狙いますが、

捕縛され六条河原で首を刎ねられてしまいます。

 

 

 

また一方、義朝の側女であった常磐御前は、彼との間に生まれた三人の幼い子供たち、

今若・乙若・牛若を連れて逃げますが、やはり平家に捕らえられてしまいます。

しかし、常磐御前が京都一(おそらくは日本一)の美人であったため、

清盛に愛人として抱えられ、そのおかげで三人の子供たち、

今若(後の阿野全成)、乙若(後の義円)、牛若(後の義経)は、かろうじて命だけは助かり、

それぞれ、醍醐寺、三井寺園城寺、鞍馬寺へと預けられました。

このように、源氏は事実上、壊滅状態でした。

 

 

 

この時点で西国平家は、この世の春を謳歌し始めていたのです。

清盛たちにすれば源氏など歯牙にもかけておらず、

だからこそ、頼朝や義経たちが命までは取られずに済んだという一面もあるでしょう。

 

やがて「この一門にあらざるは、人非人なり」とまで豪語して驕り高ぶる平家に対して、

多くの人々の不満が爆発しました。

(この言葉も、正確な訳は口に出せないので、拙著『源平の怨霊』講談社刊、をご覧ください)

 

 

そして、ついに治承四年(1180)。

後白河天皇皇子の以仁王は、全国の源氏に向けて「平家を討て」という、

令旨(命令の書)を出しました。

但し、ここでのポイントは、あくまでも「源氏」に向けての令旨だったということです。

つまり時政たち「東国平氏」は無関係でした。

なのに、どうして頼朝にあれほど肩入れすることになったのかと言うと、

またもう少し先の話になります。

 

 

 

その令旨に応えて、都では源頼政が七十七歳にして挙兵します。

今で言うと九十歳近い年齢でしょうか。

しかし彼の主旨に賛同して、周囲の一般の人々までもが、反平家の狼煙を上げました。

(挙兵の真の理由は不明とされていますが、実は非常に明瞭で筋が通っているのです。

その真相も、やはり拙著『源平の怨霊』講談社刊、をご覧ください)

 

 

 

結果、頼政は宇治川の戦いに敗れ、平等院で自害してしまいます。

しかし、とても信頼していた頼政の挙兵に清盛は怒りが収まらず、

やはり源氏は信用ならぬと言って、今度は全国の源氏の生き残りを全員殺せと命じます。

そのため、伊豆の片隅でのんびり政子との恋に溺れていた頼朝もさすがに焦りました。

時政としては、素直に頼朝の首を差し出す手もあったのですが、溺愛する娘に懇願されて、

乾坤一擲、一か八かで頼朝を押し立てることに決め(やむなく)伊豆で挙兵します。

 

しかし予想通り頼朝は殆ど力にならず、緒戦の山木館襲撃に際しては時政から、

「一緒に来なくて良い。但し我々が敗れたことを知ったらこの場で自害して果てろ」

と吐き捨てられたといいます。

その後、自身が参戦した石橋山の戦いに於いては、一命を落とす寸前でした。

 

 

 

それを何とか凌いだ後(天の助けとも言うべき)頼朝の異母弟たち、

軍事の天才・義経や、人望篤い範頼らが戦列に加わり――ここから先は皆さんご存知の通り――

一ノ谷、屋島、壇ノ浦と平家を撃破して行きます。

そしてついに、先ほどの令旨から、わずか五年後の元暦二年(1185)

壇ノ浦の戦いによって「西国平家」は滅亡してしまいました。

 

 

 

ところが、実はその二年ほど前に、平家は木曾義仲のために、一度都を追い落とされていました。

しかもその時、義仲は征夷大将軍になっていたという説もあります。

 

 

 

ということは、この一連の戦いが本当に「源平合戦」であるならば、

この時点で源氏の勝利となって終わっているはずです。

だが実際はそうならず、頼朝・時政は、今度は大軍を用いて義仲を追い落としにかかりました。

その結果、義仲は義経らによって首を取られてしまいます。

 

 

 

これは一般に言われるように、ただ単なる源氏の仲間割れだったのでしょうか?

おそらく、そうではないでしょう。

事実、後白河法皇と時政が裏で手を結んで、何やら事を進めていたという説もあります。

 

実際にその後、大功績を挙げた義経も、そして頼朝も、

(ぼくは、頼朝は暗殺されたと思っています。

その真犯人や暗殺方法も、やはり『源平の怨霊』に書いてあるので、

ご興味がおありの方はそちらをご覧ください)

 

 

 

続いて範頼、頼家、実朝、頼家の子・公暁と、全員が殺害されています。

義仲の子の義高も殺害され、

義経と静御前との間の生まれたばかりの子は、由比ヶ浜に沈められました。

更に、頼家と比企一族との間に生まれた一幡も、わずか六歳で北条氏によって殺されています。

このように、源氏の血を引く男子全員が殺害されているのです。

 

 

 

結局これら一連の戦いは、俯瞰すれば清盛たち「西国平家」と、

源氏を担ぎ上げて最前線で戦わせた北条氏たち「東国平氏」との戦い、

つまり「平平合戦」であり、

源氏は「東国平氏」たちの単なる「傭兵」に過ぎなかったと言えるのではないでしょうか。

 

もっと細かく言うならば、純粋に「源氏」として「平家」と戦ったのは、

頼政と義仲の二人しかいませんでした。

他の戦いは全て「平平合戦」だったことになります。

 

ところが一般に言われるように、この戦いを全て「源平合戦」と捉えてしまうと、

一ノ谷、屋島、壇ノ浦の戦いなどにおける義経たちの大活躍で、

源氏が一方的に平家を破ったように思えてしまい、

「勝者」である源氏と「敗者」である平家(平氏)と色づけされてしまうのです。

特に『平家物語』や、小泉八雲の『耳なし芳一』などで、

平家の哀れさが強調されてしまうと、尚一層強く感じてしまうことでしょう。

 

 

 

しかし今見てきたように、源氏のほぼ全員が「東国平氏」によって殺戮されています。

義経、頼朝、範頼、頼家、実朝、公暁、義円、一幡など、源氏の血を引く人々の殆どです。

 

しかも、鎌倉では死後の扱いも酷いのです。

義朝の尾張・野間大坊の墓や、

頼政の宇治・平等院の供養塔や、

義仲の大津・義仲寺の墓があるのは、全て鎌倉の外です。

 

 

 

一方鎌倉内では、鎌倉幕府初代将軍である頼朝の墓の所在すら明らかではなく、

現在ある供養塔ですら、死後六百年も経った江戸時代に

当時の島津藩主によって建立されました。

 

 

 

修善寺の範頼や頼家の墓も酷く、一説では片手で押し倒せそうだったとも言います。

明治の歌人・正岡子規が範頼の墓を訪れた際、雨ざらしの余りのみすぼらしさに

自分が被っていた傘を捧げて、

「鶺鴒(せきれい)よ この傘叩くことなかれ」

と詠んで涙をこぼし、修善寺を後にする際には、

「この里に悲しきものの二つあり 範頼の墓と頼家の墓と」

と詠んだといいます。

 

 

 

右大臣という高い地位に上り、鎌倉三代将軍であった実朝も、

首なし遺体のまま勝長寿院の傍らに葬られました。

 

 

 

更に、その勝長寿院は源氏の菩提寺だったにもかかわらず、

名前とは裏腹に、火災で焼失後は廃寺になってしまって、

現在は「跡地」しか残っていません。

しかもその傍らには、頼朝の父である義朝と鎌田政家の、

本当に小さな墓(供養塔)が草に埋もれて立っているだけです。

 

 

 

更に、実朝を暗殺してしまった公暁に至っては、

墓も供養塔も彼を祀る寺社すらなく、

伝承の定かではない位牌が一柱、

沼津の大泉寺というお寺に残されているだけです。

 

 (画像提供:ふぃろ)

 

公暁に関しては、三代将軍・実朝を殺害したのだから仕方ない、

という考えもあるようですが、本当にそうなのでしょうか?

実はぼくは、そこにはまた違う理由があるのではないかと考えています。

 

というのも、公暁が実朝の首を取った際に、

「親の敵は、かく討つぞ」

と叫んだとされているのですが、

これは非常におかしな話なのです。

何故ならば、公暁の父である鎌倉二代将軍・頼家が暗殺された元久元年(1204)、

実朝は十二歳。

公暁に至っては、わずか四歳でした。

四歳の人間が、当時まだ十二歳だった「叔父」を「自分の親の敵」などと考えるでしょうか。

しかも、実際に頼家の暗殺命令を下したのは、北条義時だったわけです。

全てが理屈に合いません。

 

 

 

おそらく公暁は、幼い頃からずっと誰かにそう唆され、

(言い方を変えれば「洗脳」)され続けてきたのでしょう。

もしかすると「その時」のために何者かによって、

「純粋培養」されてきたのかも知れないと思ってしまうほどです。

 

 

そして、建保七年(1219)正月二十七日の鶴岡八幡宮の悲劇へと突き進んで行き、

実朝の首を取った後(まるで口封じのように)三浦の郎党に襲われて首を取られ、

十九歳の短い生涯を終えました。

ここで「源氏嫡流――正統な源氏の血」は絶えてしまいます。

 

 

 

続いて、義朝の血を引いていた今若(阿野全成)の子、

つまり、次期将軍の座を狙うことができた人物である阿野時元も、

義時らの襲撃を受けて自害してしまいます。

ここに「源氏庶流――源氏分家の血」も絶えてしまったことになります。

(正確に言えば、女子を含めた「源氏の血」は、まだ残っていましたが、

どちらにしても、その十五年後には、完全に絶えることになります)

 

 

 

結局は公暁も、東国平氏たちの「傭兵」の一人に過ぎなかったということなのかも知れません。

穿った見方をすれば「実朝暗殺」のために、

用意周到に「準備」されていたのではないかとも思えてしまうほどです。

そのために、彼の墓も供養塔すらも造られなかったのでしょう。

何故なら、公暁をうまく利用した人々にとって彼を弔うことは、

自分たちの所業を認めることになってしまうからです。

彼らとしては、あくまでも

「勘違いして血気に逸り、一人で暴発してしまった無知な若者」

としておきたかったのではないでしょうか。

 

 

 

つまり――。

壇ノ浦で亡んだ「平家」や、

その後、鎌倉での権力争いで命を落とした「平氏」はもちろんとしても、

東国平氏たちの「傭兵」として戦い、

役目が終わると同時に次々と粛清されていった「源氏」こそ、

もっときちんと丁寧に供養されるべきではないのかとぼくは考えるのです。

 

 

 

★結論

 

「源平合戦はなかった」

「この戦いは、あくまでも『西国平家』と『東国平氏』との戦いで、

源氏は東国平氏の『傭兵』に過ぎなかった。

その証拠に源氏は、役目が終わると次々に殺されている」

「しかし、これら一連の戦いを『源平合戦』と考えてしまうと、

源氏は一ノ谷・屋島・壇ノ浦などで『西国平家』に勝利している」

「そのため、一般的に勝者と思われていて

『西国平家』滅亡後に『東国平氏』によって命を奪われて血統を絶やされた源氏は、

きちんと供養・鎮魂されていない」

「更に、頼朝の孫の公暁に至っては、墓や供養塔どころか彼を祀る寺社すら存在しない。

その理由として、公暁が『親の敵』として三代将軍・実朝を暗殺したからだといわれている」

「しかし『親』である頼家暗殺当時の彼の年齢を考えると、

そのようなことを考える可能性はとても低く、

後に『東国平氏』の策謀に嵌められてしまったと思われる」

「ゆえに。

正統な源氏を継ぎ、しかもその純粋さにつけこまれて利用され

『東国平氏』によって暗殺者として殺戮されてしまった公暁こそ、

最後の『正統な源氏』として供養・鎮魂されるべきである」